生成AI問題については結局ここが本質だと思う。
AIが生成した映像や絵や音が「瞬発的な消費に耐えうるクオリティを備えている」のは結構前から紛れもない事実として存在しているし、その流れが止まらないのも現実。
ということは、創作という営みを生成AIに完全奪取されないためには、受け取る側の感性をもっと深化させるしかない。
※ちなみに受け取る側には創作者も含まれる。これは作る側と受け取る側を分断しようという話ではない。全体の話。
さだまさ氏が言うようにそこに哲学を見いだせるかどうか、創作物を瞬発的に消費せずその奥にあるアーティシズムやポエジーに感応できるかどうかが問題になってくる。AI生成がはびこる世界っていうのは要するに受け取る側が舐められてる世界なのではないか、と私は考える。
AIが単純に生成したものを否定する必要もない。「面白いけど浅いね。でも舐めんなよ」っていうスタンスでいいと思う。でも全員が「浅くてもいいや。もっと侮ってくれ」になったら終わり。敵はAIという道具ではなく、感性の鈍化だ。受け取る側は作る側に対して「人間が主導権を手放したらすぐに見抜くぞ」という目を向けておくべきだし、作る側は「主導権を手放したらすぐに見抜かれる」という緊張感を持っておくべきだろう。この緊張関係を維持することが、AI時代における指針ではなかろうか。
さだまさし「AIに音楽を作らせると、結構いいものを作る。ただ、そこに哲学はない」
さだまさしはAIによる音楽制作について「AIは結構いいものを作るが、そこに哲学はない」と述べた。
人間の出す音を重視し、AIとの共同作業は可能でも「イニシアチブは人間が持つべきだ」との考えを示した。