YouTubeで日本の歴史上の人物をネタにしたアニメ動画を投稿しています

「江戸時代は庶民も識字率が高かった」と言う方がいますが、地域差がとても大きいです 明治初期に政府が実施した「自分の名前を書けるか」という調査では、書けた割合が高い滋賀県では男89%、女39%でしたが、低い鹿児島県では男33%、女4%というデータがあります さらに県内でも高い地域と低い地域の差が大きく「一概には言えない」です ただ、明治政府の政策に「国民の識字率を上げよう」というものがあったので、「江戸時代の日本は全国どこでも庶民の識字率が高かった」という認識は誤りですね
31
299
1,125
56,138
それが出来るならそうしてましたね!桶狭間の戦いでは今川義元の家臣を捕らえて、どの首が誰の者が証言させました。証言した今川家臣は助命されて褒美も与えられてます
Replying to @dearurin
顔、を知ってる者?を生け捕りにしといて、照合させた、なんて説も聞いた事が。。。
1
1
37
1,684
写真がない時代の戦国時代の「晒し首」って他人の首を晒しちゃうことなかったの? ありました。織田信長も別人の首を晒しちゃったことあります 本願寺勢力が、明智光秀らの籠もる天王寺砦を攻撃した時のこと、織田信長は自ら前線に立ち、足に銃弾を受けるなど負傷しながらも本願寺勢力を倒して勝利します そこで本願寺方の有力者・雑賀孫市を討ち取り、京都で晒し首にして、その首を公家も見物しました。ところが、なんと後日、雑賀孫市は生きていたことが発覚し、孫市は、その後も信長と戦うのでした 信長が間違えて別人の首を晒したのか、政治的意図があって、あえて雑賀孫市が死んだという事にしたのかは分かりませんが、別人の首を有名な武将として晒すってのは信長もやってます
4
17
151
11,136
『古事記』で熊襲征討や東国征討を行ったとされる皇族の英雄「ヤマトタケル」って元々はとんでもなくヤバイ人だったと書かれています ヤマトタケルの父親の景行天皇が、息子の一人が食事に来ないことを、ヤマトタケル(オウスノミコト)に「注意してこい」と命令したところ、ヤマトタケルは、その兄がトイレに入ったところを襲撃して、手足を引きちぎり、亡骸は敷物に包んで捨ててしまいました それを平然と景行天皇に報告したところ、「兄を躊躇なく殺す」息子の荒々しさに恐怖した景行天皇は、ヤマトタケルに西に行って天皇に従わない熊襲と戦って倒してくるように命令するのでした
19
57
438
39,323
最近の若者は『どうせ殴られない』と思って調子にのって他人に無礼なことを平気でする みたいな意見を最近よく見るのですが、老人にだってコンビニや飲食店で店員さんに失礼な態度で怒鳴ってる人いますよね。サービス業へのカスハラ調査では迷惑行為をする人の75.7%が50代以上というデータもあります 「どうせ斬り殺されない」と思って調子にのってる人なんて全ての世代にいるのでは?と思います。若い世代はそれをSNSで発信してるから目立つだけじゃないですかね
52
452
1,851
57,332
日本が戦国時代に入った原因のひとつとも言われる『応仁の乱』の時、天皇が東軍側にいたので、西軍は政治的正当性で不利な状況でした。そこで西軍の人々は 「だったら、こっちも新しい天皇を立てちまおう!」 と考え、南朝の子孫とされる18歳くらいの青年を京都に迎え 「こちらこそ正統な天皇だ!」 として擁立します。 ただし、この青年が本当に南朝の皇族の子孫だったのかは不明です。その後、西軍の中心人物だった山名宗全が亡くなり、有力武将たちも次々と軍を引き揚げ、西軍そのものが崩壊してしまったので、結局、天皇が入れ替わることはありませんでした 南北朝の合一から約80年ほど後になって、武士たちが再び南朝の血筋を政治的に利用しようとしたんですね 北条義時や足利尊氏の他にも 「今の天皇とは別に、自分たちに都合のいい天皇を立ててしまおう!」 って考えた武士は日本史上に他にも何人かいます
17
127
766
80,209
日本中世の武士には「民の生活を良くしようなんて価値観はなかった」という趣旨の主張をされる方がいますが、日本最古の歴史書の『日本書紀』にすら 「天が君主を立てたのは民のためである。したがって君主は民を根本としなければならない」 と書いてあるので、少なくとも「民を幸せにすることが良い君主の条件だ」という価値観は古代から日本にあります もちろんクソみたいな領主もたくさんいたでしょうけど、理想と現実は分ける必要があるってのは、価値観が無かった、とは別問題です
62
905
3,770
177,992
先日放送されたBS11の歴史番組で、「細川忠興が妻と目が合っただけの庭師を斬り殺した」という話が歴史的事実のようにやってましたが、これはデマです 江戸時代後期の逸話集にもそんな話でてこないので、もっと近代に作られた話です
14
179
574
35,592
戦国時代の仏教は宗派間の対立があり、宗論という仏教知識の討論をすることもあれば、時には武力衝突をすることもありました。 延暦寺(天台宗)と本願寺(浄土真宗)も元々対立して武力衝突するほどの間柄でしたが、織田信長という共通の敵ができたことで間接的に協力するようになります 敵の敵は味方理論ですね
2
6
74
1,937
中世から近世の日本には、実の親とは別に、人生の節目で「第二の親」を迎える制度がありました。男性の「烏帽子親(えぼしおや)」は有名ですが、女性にも似たような制度があり「鉄漿親(かねおや)」と言います 女性が初めてお歯黒をする際に、親代わりとなって儀式を世話する女性のことで、親族や知人の中から人望や福徳のある女性を選び、お歯黒の道具を贈ってもらったり、染め方を教えてもらったりしました これは単に化粧を教えてくれる人ではなく、成人を迎える女性と実の親とは別の親子関係を結ぶものです 鉄漿親と鉄漿子の関係には地域差がありますが、関係が強い地域では、結婚や出産には親から贈り物が届けられ、子も親の冠婚葬祭を手伝いました
1
10
97
2,995
昔の日本の農村では自分の家のために働いてもらったら、金銭で礼をするのではなく、同じだけの労働で返す、という文化がありました 「結い」「手間替え」「手間借り」など地域によって呼称は変わりますが、自分の家のために1日働いてもらったら、自分も相手のために1日働くという、労働の等価交換です 現在のようにお金で様々なサービスを利用できる社会も便利ですが、かつての農村には、こうしてお互いの労働を交換し、助け合いながら暮らしていた人々もいたんですね。
4
11
121
3,188
後醍醐天皇の忠臣といえば「楠木正成」が有名ですが、『太平記』には同じように天皇のために身を尽くした人物が登場します。「日野俊基」という公家です。 後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を考えていたころ、内密に計画を進めないといけないので、優秀な側近数名だけに計画を話しました その内の一人、日野俊基は、代々の儒学者の家業を受け継いだ、学才の優れた人物でした。そのため重要な役職に取り立てられ、文章や公文書に関わる官職など、いくつもの職務を担っていたのですが、そのせいで仕事が多く、倒幕の策を練る暇がない。なんとかしばらく仕事を休んで計画を進めたいと考えました そこで日野は朝廷で、比叡山の僧侶からの訴状を読み上げる時、「楞厳院(りょうごんいん)」を、わざと「慢厳院(まんごんいん)」と読み間違え、それを見た公卿たちに手を叩いてバカにされます。そして日野は恥ずかしがっている様子で顔を赤くして、その場から逃げ出します 「公衆の面前で恥をかいたので恥ずかしくて人前に顔を出せない」 という話をひろめて、家に引きこもっていると周囲に思わせながら、山伏姿に変装して大和・河内を歩いて城にできそうな要所を見ておいたり、東国や西国へ下って、各地の様子や人びとの力量、財力を探って回りました 後醍醐天皇の倒幕計画のために、自分は周囲から 「無学を晒して恥ずかしく思い、外に出てこれなくなった小心者」 と笑われながらも天皇の計画のために働いたんですね ちなみに日野は鎌倉幕府滅亡の一年前に計画が発覚したことで捕らえられ斬首されたので、鎌倉幕府滅亡を見ることはありませんでした
1
13
136
5,242
「人として生まれるならば女の身にはなるな。一生の苦しみも楽しみも、他人によって決められてしまうのだから」 これは1200年以上前の中国・唐代の詩人、白楽天が書いたもので、女の人生が夫によって決められてしまうことを書いており、日本でも、天皇の妃になりながら天皇に愛されなかった女性の運命を嘆く文に、この詩が引用されています が、実はこれ、当時の中国の皇帝の気まぐれを批判するために書かれたものなんです。詩の後半には、こう続きます 「このようなことは夫婦の間だけではない。近ごろの君主と家臣の関係も同じなのだ。見たことがないだろうか?朝廷の高官たちが、朝には皇帝の恩寵を受けながら、夕方には死を命じられてしまうことを」 つまりこれは、皇帝に仕える家臣が皇帝の気まぐれで運命を左右される苦しみを、夫に運命を左右される妻に例えて風刺した詩なんです
3
11
104
2,761
織田信長が領内の関所を撤廃したのって「信長の先進的な政策」と思われることがありますが、信長より200年ほど前の南北朝時代に書かれた太平記には後醍醐天皇が信長と同じ理由で関所を撤廃したことが書かれています 「もともと関所は国が禁止していることを人々に知らせ守らせたり、非常事態に備えたりするためのものだった。ところが今では通行料の利益を独占する場所になり、商人の往来や年貢の運搬を妨げている。君(後醍醐天皇)はそう考え、大津と葛葉を除いて各地に新設された関所をすべて廃止した」
7
46
266
14,082
寿司を食べる時に米を捨てる人がいます。ダイエットのためだそうです 「お米がもったいない!」と批判されますが、実は古い寿司にも米を捨てて魚だけを食べるものがありました 奈良・平安時代の「なれずし」は米を「魚を発酵させ保存するための材料」として使用していたので、発酵が進むと米は、かなり酸っぱくなり、柔らかく崩れてドロドロした状態になってしまいます。食べる時はその米を捨てて、魚だけを食べるわけです 室町時代には発酵期間を短くして米を食べる「生なれずし」が誕生します 現在の滋賀県の「ふなずし」が、この古い寿司に近いものですが、これは明智光秀が徳川家康を饗応する席で出したけど臭くて信長が怒ったなんて逸話にも登場します
5
5
101
3,396
「真面目に頑張っていれば、ちゃんと評価される」とは限りません 1274年の蒙古襲来で元軍と戦った鎌倉武士・竹崎季長は、味方に先んじて敵に攻めかかり、自分も負傷します。ところが期待していた恩賞はもらえませんでした。 「先駆け」の功績が、幕府に十分伝わっていなかったこと、竹崎が討ち取った敵の首を持ち帰らなかったこと、竹崎の家臣が討ち死にしていなかったこと、等が原因とされています 納得できない季長は、翌年、馬などを売って旅費を工面し九州から鎌倉へ向かいます そこで恩賞を担当する安達泰盛に直接、自分の戦功を訴えました。その結果、訴えは認められ、恩賞を与えられます 真面目に一生懸命働くだけでは、必ずしも正当に評価されるとは限りません。自分が何をして、どんな成果を出したのかを、評価する立場の人に伝えることも大切なんですね 750年前の武士も自分の実績をアピールするために必死でした
11
32
226
11,676
『日本書紀』には「奴婢」について、こんなことも書いてあります 「奴婢の中には主人が貧しいと有力者のところへ逃げ込む者がいる。有力者はその奴婢を強引に買い留め、元の主人に返さないことが多かった」 そして、その後に 「このような類いは愚かな風習である。今後はすべて廃止し、再び行わせてはならない」 現代だと奴隷制度自体が愚かな風習と考えられていますが、当時は自分のところに逃げてきた奴隷を返さない人間のことを愚かと言ったんですね
8
116
679
39,180
「兄には弟を売却する権利があった」ということではなく「禁止してるのに兄が弟を売却してしまう現実があり、国家はその売買による身分変更を認めなかった」ということです ちなみに690年以降は「父母に売られても身分は良民のまま」になりましたが、これには「奴婢が増えると課税対象になる人々が減ってしまうからじゃないか」という推測もあります
兄は弟の所有権を有しない一方で売却権は有するのか…… 所有権の及ばない物(?)を処分できるとはどういう理屈なんだろう
2
91
350
12,112
日本書紀には「親に売られた子供は賤民(奴隷身分)となるが、弟が兄に売られた場合は良民の身分を維持する」とあります 子供は親のものだけど、弟は兄のものにはならない! という当時の価値観が見えますね
「奴婢」売買の木簡、平城京跡から初めて出土 27歳女性を8貫文で asahi.com/articles/ASVB72GXX… 奈良時代に賤民(せんみん)として扱われていた「奴婢(ぬひ)」の売買を示す木簡が、平城京跡から見つかった。奈良市埋蔵文化財調査センターが7日、発表した。
3
505
2,572
66,258
室町幕府の有力者、畠山政長が明応の政変に敗れて自害した後、畠山の家臣たちが政長の嫡男・畠山尚順を盛り立てて畠山家を再興しようとします。しかし資金不足で兵糧が準備できませんでした そんな時、畠山の家臣だった木沢という武士が、金持ち商人の妻が不倫していることを知ります それをネタに商人の妻やその父親を脅して金を出させ、その金で兵糧を用意して畠山家の旧臣たちが集まり国を取り戻した という逸話が『別本細川両家記』に書かれています。この話がどこまで真実かは分かりませんが、有力者の身内の秘密は上手く使えば大きなことが出来るって話ですね
2
22
143
6,834