イスラーム世界の歴史に関心があります。大体マムルーク朝、軍事史寄りの話が多いです。

エジプト側ではムハンマド・アリー家出身の歴史家ウマル・トゥースーンが『1882年7月11日』にて、砲台の情報を記録していました。 彼によればエジプト側砲台の欠点は、 ・砲が露天に据えられ兵員の防護が不十分 ・立地の都合で砲台の標高が低く、敵艦に撃ち下ろされる ことだそうで英側と同様の所感。
オラービーの反乱における、英海軍のアレキサンドリア砲撃では沿岸要塞を正面から砲撃して圧倒してしまっていますし、この時代なら装甲艦と炸裂弾を沢山揃えれば沿岸砲との殴り合いに割と勝ててしまうんですね。 *2枚目は1枚目におけるFort Pharos(現カーイトバーイ要塞)の砲台跡(復元)
1
2
5
244
隠顕砲については特に記載なし。 火砲については、第一線に配備されていたものとして、7in、8in、9in、10inのアームストロング砲と、後備のものとして(アームストロング?)40ポンド砲を挙げていました。
1
1
42
また臼砲については、ムハンマド・アリーの治世まで遡る旧式のもので、アレキサンドリア砲撃の際の戦闘では何ら軍事的価値がなかったと書いています。
2
39
マムルーク朝、国有地を勝手に寄進できる謎のグリッジが存在し、農地の約4割がワクフに供されてしまったりしていたと言われています。
4
13
450
エジプトのアブディーン宮殿博物館には、何故か隠顕砲(普段は低姿勢で胸壁に隠れるが、射撃時のみ起立して胸壁上より発砲できる砲)の模型があるのですが、 ムハンマド・アリー朝期に隠顕砲を沿岸砲として導入する計画とかがあったのか気になっています。
オラービーの反乱における、英海軍のアレキサンドリア砲撃では沿岸要塞を正面から砲撃して圧倒してしまっていますし、この時代なら装甲艦と炸裂弾を沢山揃えれば沿岸砲との殴り合いに割と勝ててしまうんですね。 *2枚目は1枚目におけるFort Pharos(現カーイトバーイ要塞)の砲台跡(復元)
1
8
25
780
オラービーの反乱における、英海軍のアレキサンドリア砲撃では沿岸要塞を正面から砲撃して圧倒してしまっていますし、この時代なら装甲艦と炸裂弾を沢山揃えれば沿岸砲との殴り合いに割と勝ててしまうんですね。 *2枚目は1枚目におけるFort Pharos(現カーイトバーイ要塞)の砲台跡(復元)
1
11
26
1,978
カーイトバーイ要塞の例の砲台、カノンの後ろに臼砲も控えていたんですね。
4
9
242
どうでもいいんですが、Googleマップにおけるアレキサンドリア沿岸の閲覧可能範囲増えてません? 記憶違いかもですが、ラアス・アッ=ティーン西方の軍港部とか見えなかった気がするんですが......
1
152
聖遺物を失くす軍隊、 マルジュ・ダービクの戦いでオスマン朝に負けた際に、なぜか戦場に持ち込んでいたウスマーン版クルアーンを喪失したマムルーク朝軍が頭を過ぎり......
13
448
どこう retweeted
ここでの謎は、「なぜ馬を走らせながら上方の的を狙う」という実戦ではまずないシチュエーションの競技・練習法をやっているのかという話で、いっそのこと「そういう競技だから」で納得した方がいい節まである気もします。
Replying to @doko6451
カバク競技が、なぜ上後方を射る競技なのかはよく分かっていないのですが、 動作が馬上から飛ぶ鳥を射るための練習法に類似していることや、柱に据える的に小鳥やその模型が仕込まれることがあったことから、馬上での鳥狩りに関係があるのではなんてことも言われています。
1
2
8
848
どこう retweeted
カバク競技が、なぜ上後方を射る競技なのかはよく分かっていないのですが、 動作が馬上から飛ぶ鳥を射るための練習法に類似していることや、柱に据える的に小鳥やその模型が仕込まれることがあったことから、馬上での鳥狩りに関係があるのではなんてことも言われています。
2
8
1,152
十字軍期におけるアラブ騎兵の装甲についても、フランク側とサラセン側とで認識の相違がみられます。 例えば、ジョワンヴィルはアラブ騎兵が装甲を忌避し、重装甲のフランク人を蔑んでいたとしますが、 他方でアラブの騎兵であったウサーマ・イブン・ムンキズは、鎧の着用を明言しています。
1
2
14
533
尤もウサーマは定住貴族層寄りの騎兵なので、他の遊牧民騎兵は本当に無装甲だったのかもしれませんが。
2
120
中世の中東において、トルコ系騎兵とアラブ系騎兵は同じ土地、戦闘環境に存在したにもかかわらず、アラブ系騎兵は騎射を導入せず投槍の利用に留まったらしいのは何故なんですかね? (十字軍との戦闘で騎射をやってくるサラセン人も基本的にはトルコ系......のはず)
3
9
368
エジプト、紀元前14世紀の弓は残っているのに、14世紀の弓は残っていない謎の国家
エジプトはすごいので紀元前14世紀の弓もしっかり残っている(ツタンカーメン王墓)。
1
188
889
50,643
ナースィル・ムハンマド期はモンゴルとの抗争が概ね決着した時代で、外征よりも国内の叛乱防止に比重が置かれたため、弓術等の武術を規制する動きがあったとの指摘があります。 一方で、近年はナースィル期における軍事的衰退といった史観への反論も色々ありますので、判断が難しいところです。
1
6
38
4,278
因みにマムルーク朝期の弓自体は一応残っていて、恐らくシリア製と思われる弓がシリア、マヤーディーンにあるラフバ城塞から発掘されています。 この弓の図は、David NicolleのMamluk ‘Askari 1250–1517というオスプレイ本に載っていたはずです。
1
3
16
1,688
マムルーク朝期の武具の保存パターンは基本的に、 ① オスマン朝による征服の際に掠奪されイスタンブールの武器庫・宝物庫に納められたもの ② 領内の要塞に保管・放置されていて後世に発見されたもの の2パターンで、 弓矢に関しては何故か②のパターンが優越するようです。
1
3
18
593
弓そのものの完品はおそらく、ユーフラテス沿いの国境要塞であるラフバ要塞から発見されたもののみで、 矢に関してはラフバのみならずダマスカス要塞からも発見されていたはずです。
1
5
166