終えた後の賢者タイムって女性にもあるんだな。初めて知ったわ。
大泉りか『女風に行ったら人生変わった』(鉄人社)を読んだ。
さまざまな女風ユーザーにインタビューしたルポなのだが、42歳OLの声が、とりわけ印象深かった。
「わたし、セックスに対して嫌悪感があるんです。被害者意識の塊なんですよ。セックスの最中は蹂躙されているっていうか、なにかを奪われてる感覚があって、すごく悔しくなっちゃう。本意じゃないのに男に好きに体をまさぐられて、犯されるっていう気持ちがどうしても拭えない。いつも性奴隷ってこんな感じなのかな、とすら思ってる。そんなわたしがよく女風に踏み切ったなって、自分でも驚きです」
この語りで注目すべきなのは、彼女が性欲そのものを否定しているわけではない点だ。
実際には、衝動的とも言える強い欲求が周期的に訪れる。
しかし、その欲求が向かう先として、従来型の男女関係におけるセックスは受け入れがたい。
そこには常に、男性の欲望を軸に組み立てられた文脈があり、自分が「欲望される側」に固定されてしまう感覚があるからだ。
一般的な異性愛のセックスには、見えにくいが強固な脚本が存在する。
男が欲望し、女は応じる。男が主導し、女は受け取る。
そうした非対称な構造の中では、女性の欲望はしばしば二次的なものとして扱われ、自発的な主体としては位置づけられにくい。
その結果、たとえ相手に悪意がなくても、女性の側には「またこの役割をなぞらされるのか」という違和感や抵抗感が蓄積していく。
彼女が感じている嫌悪の正体は、まさにここにある。
問題はセックスそのものではなく、その行為がどのような意味づけのもとに行われるか、すなわち「誰の欲望の物語の中に自分が置かれているのか」という点だ。
男性の文脈に組み込まれる限り、彼女にとってセックスは、自分の身体が他者の欲望に回収される体験として知覚されてしまう。
その一方で、彼女が女風に踏み切ったことは、この構造を反転させる試みとして理解できる。
女風では、女性が選び、予約し、対価を支払い、サービス内容を指定する。
つまり、欲望の主体が女性側に移る。男性は応じる側となり、その身体や時間は女性の欲望を満たすために配置される。
このとき、同じ「男性に触れられる」という行為であっても、その意味は大きく変わる。
奪われる感覚ではなく、「自分の欲望を満たすために他者を利用している」という感覚へと転換されるからだ。
彼女にとって女風とは、単なる性欲の処理手段ではなく、失われていた主体性を一時的に回復する装置だったと言える。
こうした感覚を持つ女性は、決して例外的ではない。
性欲が希薄なのではなく、特定の文脈におけるセックスに対して強い拒否反応を示しているにすぎない。
そしてその拒否は、個人的な気分の問題というよりも、長年にわたり反復されてきた性の非対称な構造に対する、きわめて合理的な違和感でもある。
女風の存在は、その違和感が無視できない水準で広がっていることを示している。
そこではじめて、多くの女性が「欲望される側」ではなく、「欲望する側」として振る舞う経験を手に入れているのである。